June 30, 2022
戦禍に晒されるウクライナの博物館
[2022.6.30]
栗原 祐司
京都国立博物館副館長・ICOM日本委員会副委員長
[博物館研究 2022年5月号 Vol.57 No.5(No.648)に、筆者が一部加筆]
京都市の姉妹都市キーフ
ロシアによるウクライナ侵攻、そしてロシア軍によると思われる民間人への残虐行為が世界的に問題となっている。昨年11月に東京及び岩手で開催したDRMC(博物館防災国際委員会)年次大会では、自然災害だけではなく、エクアドルやエチオピアから武力紛争時の文化財保護に関する発表があり、改めて1954年ハーグ条約は「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約[1]」であることを認識させられたが、今まさに武力紛争による文化財の危機が現実の問題となっている。しかも、国連の常任理事国であるロシアによる攻撃であり、第二次世界大戦の独ソ戦に従軍した女性たちの聞き取りをまとめたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ[2]によるノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』が2015年にノーベル文学賞を受賞し、反戦のメッセージが発せられたにも関わらず、このような事態となっていることは、誠に残念でならない。
筆者が住む京都市はウクライナの首都であるキーウ(キエフ)と1971年9月に姉妹都市提携を結んでおり、市内にはウクライナ料理を味わえるレストランがあるなど比較的知られているが、多くの日本人はウクライナという国になじみはなかったのではないだろうか。従来から1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故(当時はソ連)や2013-14年のユーロマイダン革命(ウクライナ騒乱)とロシアによるクリミア自治共和国の併合などで報道はなされていたが、今回改めてウクライナのNATO加盟等を巡る極めて難しい地政学的なパワー・バランスを認識させられたと言ってもいいだろう。
かくいう筆者も未だウクライナを訪れたことはないが、筆者と同じくICOM-DRMCのボードメンバーであるIhor Poshyvailo氏がキーウにあるMaidan Museum[3]の館長であり、彼からメールやオンライン会議等を通じて様々な情報を入手することができた。もとより、それらは公的な情報ではなく、セキュリティの観点から意図的に隠している情報もあると思われるが、米英での報道等も参考にしつつ、2022年4月時点で知り得た情報を記しておくことにしたい。
被災した博物館
キーウには、ウクライナ国立美術館や国立ウクライナ歴史博物館など、数多くの博物館・美術館があるが、今のところこれらの博物館が被害を受けたという情報はない。ただし、2月末には、キーウの北西に位置するイヴァンキフ歴史・地方史博物館がロシア軍の攻撃を受け、ウクライナの国民的画家であるマリア・プリマチェンコの作品が焼失したと報じられた。また、港湾都市マリウポリのクインジ美術館(ロシアで活躍した画家アルヒープ・クインジの名を冠した美術館)が空爆で破壊された。4月1日のユネスコの発表によれば、これまでウクライナの教会や歴史建造物など少なくとも53件の文化遺産などに被害があり、博物館の被害も4件であった。さらに、ウクライナ文化情報政策省からの情報によれば、4月末時点で158の文化財・文化施設が、部分的または完全に破壊され、博物館・収蔵庫の被害も13件であったという。幸い国内に7つある世界遺産の被害は確認されていないが、戦争が長引けばこれらにも被害が及ぶ可能性があるだろう。
ウクライナ西部にあるリヴィウ国立博物館では、ロシア軍の空襲に備え約1,500点の作品を地下収蔵庫に移動し、展示室には何もないという。作品の中にはナチスドイツからの被害を免れ、ソ連時代にも展示されず、近年修理を経てようやく展示されるようになったものの、再び収蔵庫に眠ることになったものもあるらしい。
Ihor Poshyvailo館長によれば、ウクライナ文化情報政策省が訓練用に作成したガイドラインに基づいて館内の文化財の緊急避難を進めたが、交通手段が避難民や爆撃によって遮断され、有りあわせの梱包材に包んで地下に隠すしか方法がなかったという。セキュリティの観点から、詳細な避難場所は明らかにされないものの、ウクライナ政府からは明確な指示がなく、国が所有している文化財については許可がないと移動できないという問題もあり、官僚主義が阻害している側面もあると述べている。現在は、アメリカのスミソニアン機構[4]、ICOM-USが中心となって文化財の救援活動が計画されており、ヴァージニア自然史博物館における衛星センサーを活用した軍事攻撃とウクライナの文化遺産目録とのマッピング等による分析も進んでいる。
ICOMウクライナ国内委員長のKateryna Chyeva氏は、現在ブルーシールドウクライナ国内委員長と文化情報政策省の副大臣を兼務しているが、文化財の避難、救援に政府からの支援は期待できず、草の根レベルで、諸外国のマニュアルやハンドブック等を翻訳して対処している。とりわけオランダの避難マニュアル(Evacuation Manual)は有益だという。
一方、ロシアの施政権下にあるクリミア半島では、世界遺産に登録されているクリミア・ハン国のバフチサライ宮殿が、ウクライナの専門家の許可を得ることなく、ロシア政府によって修復が行われている。また、同じく世界遺産に登録されているクリミア半島南西部セヴァストポリにあるヘルソネソス・タウリカ国立保護区では、既に2021年6月から発掘が始まり、ロシア国防省が管理しているが、その研究成果をロシアの美術館に送り、史跡を娯楽やプロパガンダに使っており、専門家ではない組織が発掘と修復に携わっているという。その結果、考古学的発見は違法にロシアに輸出され、ブラックマーケットに出回っているという説もある。
動物園の危機状況
動物園もまた、危機的な状況にある。ウクライナには12の動物園があるが、このうちハルキウの「フェルドマン・エコパーク」が破壊され、飼育員3人が銃撃を受けて犠牲になった。リビウ近郊のリンポポ動物園や南部のオデーサ動物園には、休園しているキーウの動物園はじめ紛争地域にある動物園の動物が次々と避難しているという。
そのような中でも、キーウ北郊のデミディフ村にある私立動物園「公園12か月」は、爆発音等のストレスで死んだ動物はいるものの、人的・物的被害は免れ、ロシア軍の撤退後、5月中旬に営業を再開したという明るいニュースもある。餌や燃料の確保など課題は山積しているが、世界中の人々がこれらの動物園のチケットをオンラインで購入し、動物の餌や従業員の給与のための資金を提供している。一日も早くウクライナの人々が笑顔で動物園に訪れる日が来ることを望みたい。なお、ヨーロッパ動物園・水族館協会(European Association of Zoos and Aquaria: EAZA)が、ウクライナの動物園・水族館支援のためのサイトを立ち上げている。
各国際機関からの声明
こうした状況を受け、ICOM(国際博物館会議)は2月24日に以下の声明(Statement)を出した。
同様の声明や決議等は、ICOMの各国際委員会や国内委員会、ユネスコ、ICOMOS、ブルーシールド国際委員会等からも出されており、ICOMポーランド国内委員会では、ウクライナの博物館関係者の受け入れも行っている。ICOMによるウクライナ救済のための募金活動も始まっており、ICOM日本委員会も募金活動を始めた。
1954年ハーグ条約の前文には、「いかなる国民に属する文化財に対する損害も全人類の文化的遺産に対する損害を意味するものである」と述べられている。国際協調によって、これ以上博物館や文化財の被害が拡大しないことを祈念したい。
(くりはら・ゆうじ)
[1] 武力紛争の際に文化遺産を保護するための措置を定めた条約で、第二議定書で自然災害も対象になったことなどにより、日本も2007年9月に批准し、国内法として「武力紛争の際の文化財の保護に関する法律」が制定された。
[2] 父はベラルーシ人、母はウクライナ人で、ロシア語で書かれた。『戦争は女の顔をしていない』は日本でも翻訳出版され、マンガ化もされている。
[3] 正式にはNational Memorial to the Heavenly Hundred Heroes and Revolution of Dignity Museum(天国の100人の英雄及び尊厳の革命記念博物館)。Maidanはウクライナ語で「広場」の意味で、キーウの独立広場におけるデモ活動から始まったユーロマイダン革命(ウクライナ騒乱)に関する博物館。
[4] Smithsonian Institution Cultural Rescue Initiativeによる主導で、メトロポリタン美術館など主要な博物館・美術館の専門家も参加しており、オランダのクラウス王子基金(The Prince Claus Fund)等を活用している。