September 16, 2020

ICOM京都大会へのあゆみ

ICOM京都大会2019組織委員会事務局長
日本博物館協会専務理事
半田 昌之

[本記事は、『博物館研究』Vol.55 別冊 (ICOM京都大会2019特集)の再録です]

日本にICOM(国際博物館会議)国内委員会が設置されたのが昭和26(1951)年、そして翌27年にICOMへの加盟が認められてから67年を経た令和元(2019) 年の 9 月、日本で初めてICOM京都大会が開催された。アジア諸国のなかでは最も早く国内委員会が作られた日本だが、大会の開催は、韓国のソウル(平成16(2004)年)、中国の上海(平成22(2010)年)に続く 3 回目の開催となった。韓国・中国ともに、本格的な経済発展を遂げつつある国内状況の下で、国際社会での存在感を示すことが求められる時代に、ICOMという国際的な博物館組織の大会を国家的な文化外交戦略として利用し、国を挙げて取組むことで大きな成果を挙げた。一方、既に高度経済成長期を経て成熟社会となった日本は、国内に5,700以上の施設が存在する、いわば博物館大国ともいえるが、博物館を取巻く運営環境は厳しい。その日本でICOM大会を開催するに際しては、過去 2 回アジアで開催された大会の実績を踏まえつつ、アジアで開催される 3 回目の大会として新たな意義と成果を求められることとなった。

こうした背景の下に開催されたICOM京都大会について、本誌においても、大会の成果とともに、現状における課題や今後への期待が多く指摘されている。この「ICOM京都大会へのあゆみ」では、日本博物館協会の創設からICOMとの関係、ICOM日本委員会の活動の事績から大会招致、そして開催に至る経緯を振り返り、その道のりを今後につなげたい。

1 .日本博物館協会とICOM

日本の博物館育ての親とも称される棚橋源太郎(明治 2 (1869)年~昭和36(1961)年)が中心となり、日本博物館協会の原点である博物館事業促進会(以下促進会)が創設されたのは昭和 3 (1928)年 3 月のことである。棚橋は、東京博物館(現国立科学博物館)の館長兼東京高等師範学校の教授在任中の大正12 (1923)年に関東大震災に遭い、全焼した東京博物館の復興に尽力した。翌大正13(1924)年には館長兼教授の職を退き、1年間のヨーロッパ留学の後に、赤十字社参考館(後の赤十字博物館)の創設に関わるとともに、日本全体の博物館振興と博物館令(法)の制定を目指し促進会を設立した。自ら常務理事として会の活動を支え、設立と同時に機関誌「博物館研究」の発行を開始した。以来、昭和 6 年に促進会は日本博物館協会に改称、昭和15(1940)年に社団法人、昭和61(1986)年に財団法人、そして平成25(2013)年に公益財団法人へと組織形態は移り変わりながら「博物館研究」の刊行は受け継がれている。その誌面で棚橋は、促進会設立当初から、国内の諸課題や各博物館の動向とともに常に海外の博物館に目を向け、その情報を積極的に紹介し続けた。棚橋はじめ当時の日本の博物館関係者にとって、欧米を中心とする海外の博物館動向は、国内の博物館の発展にとって参考とすべき重要な情報であり、「博物館研究」は貴重な情報の発信媒体であった。

棚橋は、戦時体制下における政情の影響を受けつつも、常に国際的視野を保ちながら博物館の充実に取組み、終戦から半年後の昭和21(1946)年 2 月には、手書きガリ版刷りの「博物館研究」第18巻第 1 号を発行し、冒頭に「博物館令の制定へ」と題する記事を掲げ、博物館法制定の必要性を訴えている。その後、昭和24(1949)年まで発行された「博物館研究」復興第 1 巻から 3 巻までの計 4 号では、戦後の博物館復興に向けた観光政策との連携の必要性や、英米、ドイツ、ソ連等、幅広い海外の博物館情報を発信している。

このように、ICOMが設立された昭和21年当時、日本博物館協会(日博協)は、博物館法制定に向けての運動を加速させる一方で、昭和23(1948)年には国から日博協への補助金が打ち切られ、苦しい財政状況のなかで、その活動は棚橋たちの個人的熱意に支えられていた。「博物館研究」の発行も途絶えた昭和24年にはガリ版刷りの「会報」を発行し情報発信を続けるなかで、昭和26年 4 月に発行された会報第16号に、初めてICOMについての記事が登場する。そこでは、日博協理事で、前年の25年にロンドンで開催された第 2 回のICOM大会にオブザーバーとして出席した国立科学博物館の中井猛之進館長から、日本としてICOMへ参加する意思が表明され、組織の概要紹介とともに、国内委員会の設置に向けて準備し本部に申請することが記されている。ちなみに日本は、昭和26年 6 月にパリで開かれた第 6 回ユネスコ総会において、ユネスコへの加盟が承認された。

こうした状況を受け、ICOM国内委員会の設置に向けた準備を進め、昭和26年 5 月には第 1 回国内委員会を開催した。中井猛之進委員長はじめ、委員には浅野長武 東京国立博物館長、河竹繁俊 早稲田大学演劇博物館長、柳宗悦 日本民芸館長、古賀忠道 上野動物園長、本田正次 東京大学植物園長、高橋誠一郎 文化財保護委員会委員長、金森徳次郎 国立国会図書館長、徳川宗敬 日本博物館協会長、棚橋源太郎 同協会専務理事の10名が名前を連ねた。この布陣で本部に申請したところ、委員の追加を勧告され、北方文化博物館 伊藤文吉館長、生駒山天文博物館 上田穣館長、国立博物館奈良分館 黒田源次館長、大阪市立美術館 望月信成館長の 4 名を追加して改めて申請を行い、翌昭和27(1952)年 2 月に正式に加入が承認された。

この委員の構成を見てみると、館種や設置者のバランスに配慮するとともに、文化財保護や図書館等との連携が意識されていることが窺える。また、ICOM本部への申請手続きが、文部省渉外ユネスコ課を経由していること等から、ICOMへの加盟は国との密接な関係の下で行われたと考えられる。

2 .招致までのICOM日本委員会の活動

日本に初めてICOMが紹介された昭和26年は、博物館関係者の悲願であった博物館法が制定された年であり、当時国内に約200館存在した博物館は、その発展に大きな希望を抱き、世界の動向にも目を向け、その活動に積極的に参画していった。第 2 代ICOM日本委員長となった浅野長武 東京国立博物館長は、昭和28(1953)年から46(1971)年までの間に合計12年間にわたりICOMの執行委員を務め、ICOMにおける日本やアジアの博物館情報の発信に努め、アジア地域の博物館振興に尽力した。昭和32(1957)年に発行されたユネスコの機関誌“Museum”では日本の博物館の特集を組み、日本の博物館事情が初めて世界に紹介された。昭和35(1960)年 9 月にはユネスコ及び文部省主催による「アジア太平洋地域博物館セミナー」が東京・京都・奈良で開催され、「博物館をあらゆる人に解放する最も有効な方法に関する勧告」が決議された。

第 4 代ICOM日本委員長の福田繁 国立科学博物館長も、昭和47(1972)年から58(1983)年までの間に合計 6 年間ICOMの執行委員を務めた。この間、昭和48(1973)年にはユネスコ・アジア文化センターとの共催で「アジア地域博物館の近代化に関する会議」、昭和51(1976)年にはユネスコ主催の「アジア地域博物館の近代化に関するセミナー」をはじめ、重要な会議や研修会が日本で開催され、アジア地域の博物館振興に大きな役割を担った。

その後、国立科学博物館の鶴田総一郎事業部長も昭和61年から平成元(1989)年までICOMの執行委員に就任し、ICOFOM(博物館学国際委員会)副委員長も務めたが、その後は日本から執行委員は選出されていない。ちなみに、各国際委員会では、国立音楽大学の郡司すみ教授が平成7(1995)年から10年までCIMCIM(楽器博物館委員会)の委員長を務めたほか、いくつかの委員会で日本人が理事に就任し、CIMCIMをはじめいくつかの国際委員会の年次総会等が日本で開催された。さらに、ICOMの5つの地域連盟についても、日本が所属するアジア・太平洋委員会(ICOM-ASPAC)の前身であるICOMアジア・太平洋地域会議の委員長を、第 5 代ICOM日本委員長の犬丸直東京国立近代美術館長が務めたほか、平成21(2009)年にはICOM-ASPACの東京大会が開催された。

一方、日博協では、ICOM大会等において採択された勧告や、国内の博物館にとって参考となると思われるICOMの出版物については日本語に訳して刊行する事業も行ってきた。月刊誌「博物館研究」においても、随時ICOMをはじめとする国際的な博物館情報の発信を行っている。また、昭和52(1977)年5月にモスクワで開催された第11回ICOM大会での決議に由来する「国際博物館の日」については、平成14(2002)年から日本博物館協会として参加し、その広報普及・及び記念行事の実施を呼びかけている。

3 .ICOM京都大会招致の足跡

これまで述べたように、日博協とICOM日本委員会は、半世紀以上にわたりICOM関連の情報を国内に発信してきたが、ICOM京都大会の招致を検討し始めた平成24(2012)年当時は、日本の博物館全体がICOMに対しての認識を共有できていたとは言い難い状況であった。ICOM日本委員会は、これまでもICOMの年次総会や 3 年に一度の大会に参加はしてきたものの、そこでの議論や国際的な博物館の動きを、的確に国内に情報発信できていたとは言えない反省点もあった。また、ICOMへの加盟を果たし、国内では博物館法を核とする博物館制度の整備に取組んだ昭和20年代後半の日本における博物館数が200館程度であった状況が、その後の高度経済成長期を経て大きな変化を遂げたことも背景として考慮しなければならないだろう。昭和61年に日博協が財団法人となった時点で約2,500館と急増しつつあった日本の博物館は、その後も増加の一途を辿り平成20(2008)年には5,775館に達している。こうした状況の下で、国内では、時代に即した博物館法の改正や国立館の独立行政法人化、指定管理者制度の導入など、大きな変化が現れる一方で、リーマンショック等の影響による国や自治体の財政状況の悪化による博物館の財政難が顕著となり「博物館 冬の時代」と称される困難な時代を迎えた。数的には世界有数の博物館大国ともいえる日本だが、その大半が地域の中小規模の公立博物館である状況においては、多くの博物館が、目の前の運営課題の解決に追われ、なかなか国際的な博物館動向に目配りする余裕はなく、ICOMとの距離が遠くならざるを得なかったのも致し方ないことだった。

1 )招致への動き

こうして日本の博物館が多くの課題に苦慮していた時代に、韓国や中国は急速な経済発展を遂げつつあり、国際社会での存在感を示す国の戦略としても文化外交に力を入れ、国内では博物館の充実を推進する一方で、国際的なネットワークであるICOMに積極的に関与していった。その成果は、平成16(2004)年に韓国のソウルで開催された第20回ICOM大会に結実し、アジアで初めて開催された大会として歴史に刻まれた。また中国も、国を挙げて文化外交を推進する中で、平成22(2010)年の上海万国博覧会の開催に合わせてICOM大会を招致し、中国国内の博物館の発展を強くアピールした。

この 2 回のアジア地域で開催されたICOM大会は、ICOM全体にとっても意義ある成果を挙げ、大会開催後に、韓国は無形文化遺産に関する年報“International Journal of Intangible Heritage”の出版、また中国は、北京の故宮博物院内にICOM本部との連携による国際研修センター(The ICOM International Training Centre for Museum Studies(ICOM-ITC))の開設という大会のレガシーを残し、今も継続している。ソウルと上海で開催されたICOM大会には、日本からもそれぞれ60名ほどの博物館関係者が訪れたが、特に上海大会の終了後から、次のアジアでのICOM大会を日本で開催したいという希望が多く出された。日本開催を望む声の多くは、韓国と中国が、国を挙げての博物館振興策推進の象徴的イベントとしてICOM大会を開催することで、国内の博物館振興に大きな成果を挙げたことを踏まえ、今後の日本の博物館政策の充実を計るためにICOM大会の招致には大きな意義があるとの認識であった。また、古くからICOMと関係を保ってきた日本が、昨今は国内課題に関する議論に比重が置かれ、日本の博物館の実態を海外へ発信する機会が減少するなかで、改めて博物館の国際的動きに目を向け、国内の博物館関係者が国際的視野を持ちながら自らの課題に向き合うことは、今後の在るべき博物館制度の検討においても重要であるとの意見も示された。

こうした背景を踏まえ、ICOM大会の日本招致は検討すべき課題として位置付けられ、平成24年のICOM日本委員会総会での議論を経て、同年11月に「ICOM大会招致検討委員会」が設置された。検討委員会は、当時ICOM日本委員会の委員長だった近藤信司 国立科学博物館長を委員長、銭谷眞美 東京国立博物館長・日本博物館協会長、水嶋英治 常盤大学大学院教授を副委員長とする 9 名の委員で構成され、文部科学省社会教育課長と文化庁美術学芸課長がオブザーバー、事務局は日博協という構成だった。

3 回開催された検討会においては、ICOM大会招致の意義、ICOMに関する日本国内の認識の現状、招致に向けての準備課題、準備体制、必要資金の調達等について活発な議論が行われた。その結果、ICOM大会を日本で開催することは、博物館の社会的役割や必要性を広く一般に知らしめるのみならず、文化振興や伝統文化の発信を通じた日本の文化政策の見直しと推進に大きな意義があるとの共通認識を得るに至った。ただし、数千人規模の博物館に関する国際会議の開催は未だ経験がなく、準備組織の在り方や資金調達など懸念される課題も多く指摘された。最終的には、招致を前提に検討委員会として「ICOM大会の招致について(報告)」をまとめ、招致に向けた動きが本格化した。

2013年ICOM リオデジャネイロ大会(8月10–17日)にて
ICOM 日本委員会としてブース出展

2 )招致に向けた本格的な取組

平成25年 8 月にブラジル・リオデジャネイロで開催された第23回ICOM大会には、近藤委員長の後任の日本委員会委員長・青木保 国立新美術館長、銭谷眞美日本博物館協会長はじめ30名の関係者が参加し、日本への招致を念頭に、日本ブースを出典し招致の意思を示すとともに大会の構成や運営の状況を視察した。このリオ大会は、ブラジルにとっては 3 年後のオリンピック・パラリンピックの文化イベントとして力を入れたことが見て取れた。参加した関係者の感触としては、課題はあるものの日本での開催は充分可能であり、できれば東京五輪の開催に関連付けられた方が効果的ではないかとの見方が多かった。

こうした状況の下、同年11月にICOM大会招致準備委員会が設置され、実際の招致に向けた準備が本格化した。準備委員会は青木保国内委員長を委員長とし、先の検討委員会を補強した13名の委員で構成された。最初の重要課題は招致する年と開催地の決定で、招致のタイミングとしては、準備時間の短さも懸念されたものの、東京五輪との相乗効果を考え平成31(2019)年の第25回大会を最優先として取組むことになった。また、開催地については、国内の数都市を候補地として検討し、東京と京都を最終候補地として、五輪とのバランス、開催地側の理解度や期待される支援等を総合的に検討した結果、文化庁の移転も決まり積極的支援を表明していただいた京都市を開催地とする方針が決定した。

次の課題は大会テーマの設定で、準備委員会の下に栗原祐司 京都国立博物館副館長をはじめ現場の学芸員等からなる作業部会を設置し幅広い議論がなされた。ポイントとしては、先のソウル、上海での大会の成果を踏まえ、 3 回目のアジア地域で開催する意義を見直し、アジアの博物館の存在感を示し、相互連携を深めるイメージとともに、全世界的な博物館を核とするネットワークを通して多様な文化の対話が深まるテーマ設定が必要という観点に集約され、吉田憲司 国立民族学博物館長から、持続可能な発展と社会課題への博物館の貢献が重要との観点から「Cultural Hubs」というキーワードが提案された。さらに開催地・京都のイメージとともに過去と未来をつなぐ意味を込め、最終的に“Museums as Cultural Hubs: The Future of Tradition”「文化をつなぐミュージアム-伝統を未来へ-」に決定した。

また、作業部会を中心に、準備に向けて韓国、中国、イタリア(平成28(2016)年の大会開催国)及びICOM本部に出向き、招致立候補に関して必要な準備や考慮すべき課題等について情報収集を行った。平成26(2014)年には、大会招致の周知とICOMへの理解を促す国内への取組とともに、本部との間で立候補に向けた手続きを進め11月に本部に対して立候補の意思表明 “Letter of Intent” を提出し、最終的な2019年大会への立候補は、京都と米国のシンシナティの 2 都市に絞られ争われることとなった。翌平成27(2015)年 1 月には立候補申請書“Bidding Paper”を提出、4 月にはICOMのスアイ・アクソイ会長以下関係者 3 名による現地視察が京都で行われた。そして 6 月 2 日、パリのユネスコ本部で開かれたICOMの諮問会議にて、候補都市のプレゼンテーションと投票が行われ、シンシナティの26票に対し、京都は72票を獲得し大差で京都市での開催が決定した。

3 )本格準備から開催へ

こうして平成24年から 3 年間で準備を進めた2019年のICOM大会の日本招致は実現した。しかし、当初から指摘されていた国内でのICOMに関する周知度の低さ、資金調達等の課題への対応とともに、開催準備を担う体制の整備が急がれた。こうした状況を受け、平成28(2016)年の 6 月に、ICOM(国際博物館会議) 京都大会2019組織委員会が設置された。組織委員会は、開催地の中核施設である京都国立博物館の佐々木丞平館長を委員長に、青木保 ICOM日本委員会委員長、銭谷眞美 日本博物館協会長を副会長とし(後に蓑豊 兵庫県立美術館長が加わる)、京都府知事、京都市長、京都地域の博物館・寺社・経済関係組織の代表、文化庁、外務省、文部科学省、国際交流基金、ユネスコ日本代表部等の他、全国科学博物館協議会や全国美術館会議など日本の博物館の館種別団体等、幅広い関係機関から構成され、日本博物館協会を事務局として本格的な準備作業が開始された。

また、事前調査に訪れた中国から、準備が北京と上海に別れたことのデメリットを指摘されていたことから、開催地京都に核となる準備拠点を設けることとし、組織委員会の下に栗原祐司 京都国立博物館副館長を委員長とする大会運営委員会を設置し、京都準備室として大会に向けた準備作業の拠点としての役割を担った。さらに、イタリアの準備体制も参考にしつつ、30の国際委員会ごとに国内のICOM会員から連絡窓口の担当者を募り、各委員会との連絡と京都大会での委員会独自の会議計画等の企画・運営体制を整えるとともに、大会決議等学術分野の強化のための学術委員会や、ボランティア関係等、必要となる準備に携わるさまざまな役割を運営委員が分担した。また、開催地の京都としても大会を支援するための予算を獲得し、その管理等を担う組織として京都推進委員会が組織され、佐々木丞平委員長の下に、知事、市長はじめ京都を代表する関係機関からなる支援体制が作られた。これら組織委員会、運営委員会でご努力いただいた関係者は、本務の傍でボランティア的立場で支援いただき、大会の成功に向けて強力な推進力の源泉となった。

一方、平成28年から30(2018)年までの3年間は、大会開催への諸準備を進めながら、国内外への京都大会の周知と、必要な資金の調達への努力が続けられた。周知については、ミラノ大会をはじめ、パリでの総会、各国際委員会や地域連盟等での京都大会のプログラム紹介等を行うとともに、国内では、全国博物館長会議、全国博物館大会、日博協の各支部総会等でのICOM自体の説明と京都大会の紹介を行うとともに、館種別組織や関連学会、大学の学芸員養成課程の組織等、できるだけ多くの組織・機関の会合等に出向き、説明・周知とともにICOMへの入会を呼びかけた。一方の資金調達については、佐々木組織委員長自ら陣頭に立ち、資金獲得に奔走した。当初計画段階では 4 億円と試算した予算は、通訳等の経費が予想を上回り、最終的には 6 億円に近い額に膨らみ、資金の獲得は大会開催の最大かつ喫緊の課題であった。その中で、参加登録料等の収入、国・開催地自治体等の公的資金、民間調達、それぞれ 3 等分の割合での調達目標は、それぞれに課題や制約がありながら、多くの関係者の理解と支援により、開催の直前には予算的な見通しにも明るい兆しが見られるようになった。

このように、ICOM京都大会の準備は手探りの部分もありながらも進められ、平成30(2018)年 9 月末には、大会1年前のプレ大会として京都府舞鶴市で「ICOM舞鶴ミーティング」が開催され、国際委員会の委員長たちも多く来日し、日本の関係者と打合せを兼ねて交流する機会となった。また、11月から12月にかけては、本部からアクソイ会長はじめ幹部たちも来日する中で、全国博物館大会が東京上野地区で、また、ICOM-ASPAC九州大会が九州国立博物館で開催され、京都大会への機運が高まった。

こうして迎えた平成31(2019)年、元号が令和へと移った 5 月に、大会開催前の最後のシンポジウムが京都国立博物館で開かれ、大会についての記者発表が行われた。最大の心配事であった参加者数と資金についても、予想を上回る数値を得ることができ、第25回のICOM京都大会は予定通り開催され、大きな事故もなく無事に終了することができた。

今後に向けて

これまで、当初の日博協の創設からICOMとの関係を概観しながらICOM京都大会開催への歩みを振り返ってきた。戦後復興の途上にあった昭和27年にICOMへ正式加盟して以来、多くの先達諸氏の熱意と努力によって築かれた土台が、ICOM京都大会の成功を支えていることを改めて強く実感することができる。日本がICOMに加盟した翌年の昭和28(1953)年 6 月発行の「日本博物館協会会報」中の「ICOM日本委員会々報」によれば、同年 6 月 9 日に開催されたICOM日本委員会総会において、ICOM日本委員会の財政的独立と次期大会の日本への招致について協議決定したとの記事があり、設立当時のICOM日本委員会の熱意のほどがうかがわれる。

残念ながら当時の希望は実現しなかったが、日本への大会招致の念願は66年を経た令和元年に実際のものとなった。ちなみに令和元年は棚橋源太郎の生誕150年に当たる。その棚橋は、昭和32(1957)年から36(1961)年に逝去するまでICOMの名誉会員(Honorary Member)であった。当時の名誉会員は、ICOMの創設者で初代会長であったチャウンシー・J・ハムリン氏(アメリカ)とスウェーデン国王であり考古学者でもあったグスタフ 6 世と棚橋の 3 人だけという名誉ある地位であり、日本とICOMとの歴史に輝きを与えている。

かくして実現したICOM京都大会を改めて振り返ると、「博物館を中心に日本の文化や歴史を世界に発信し文化芸術立国政策を推進し、東京五輪前年の文化イベントとして機運醸成に寄与する」といった国から期待された開催意義はある程度達成されたと言えるのではないかと思われる。また、アジアで 3 回目のICOM 大会として求められたアジア地域の博物館の存在意義や、アジア美術に対する理解促進等についても、大会決議へ反映された要素も多く、一定の成果があったと評価できると思われる。

一方、「日本の博物館の課題解決と今後の振興」という博物館関係者がこの大会に寄せた願いが叶えられるのはこれからだ。当初目標とした日本人参加者数1,000人に対し、1,866人が大会に参加していただけたことは、主催組織の一員として最も大きな嬉しい本大会の成果であったと言える。この日本人の参加者が、ICOMという博物館の国際的コミュニティの会議に参加し、そこで交わされるさまざまな課題についての真摯な議論、大会のそこここでの国や文化を越えた博物館関係者同士の交流を、身をもって体験することができたことは、それぞれが携わる博物館での仕事への自信と、これからの希望に繋がる大きなきっかけを作れたのではないかと考えている。

しかし、その成果は日本全体から見れば未だほんの限定的なものと言わざるを得ない。大会招致を検討し始めた当初の国内のICOM会員数は約200。その後招致の過程での周知・PRが功を奏し、現在500を超えて今も増加傾向が続いている。とは言え、その数は日本の博物館関係者のごく一部にしか過ぎない。

ICOM京都大会の成果を本当に実効あるものとしていけるかどうかは、今後の取組にかかっている。大会に携わった我々は、大会の成果をさまざまな形で発信し、そこで議論されたことが、どのように国内の博物館が抱える日常的な課題の解決に結びついているのかを、丁寧に説明する必要がある。また引き続き、ICOMを中心とする国際的な博物館のコミュニティにおいて、どんな課題に対してどのような議論が行われているのかを含め、正確な情報をしっかりと持続的に伝えていく仕組みが必要である。そのためにはホームページの機能強化をはじめ、「博物館研究」など刊行物も有効に活用していかなくてはならない。京都大会で採択が延期され注目を集めている新たな博物館定義に関する今後の展開も、国際的な場での積極的議論ももちろん重要だが、新定義に盛られた内容が、日本の博物館の実情や制度との関係を踏まえて、今後の日本の博物館制度の在り方の検討の中で、法律に記す定義との関係、また博物館の行動指針としての位置付けも含め、しっかりとした議論を進めることが必要である。

その上で、国内の課題解決に向けた検討に際して、国際的動向にも目を向け、その議論にも加わりながら、国内の議論をしっかりと進めることのできる体制を作り機能させることこそ、京都大会のレガシーとして持続的に取組むべきことではなかろうか。そのために、日博協やICOM日本委員会が担うべき役割の重要性を肝に命じて、次の目標に取組むこととしたい。

[PDF] ICOM京都大会開催への道のり(参考年表)

(はんだ・まさゆき)