September 14, 2020

ICOM京都大会を振り返る―成果と課題

国立民族学博物館長・ICOM京都大会2019組織委員会委員
吉田 憲司





[本記事は、『博物館研究』Vol.55 別冊 (ICOM京都大会2019特集)の再録です]

はじめに

ICOM京都大会は、ICOM大会の史上最多、世界141 の国と地域から4,590人の参加者を迎え、大変盛況のうちに幕を閉じた。大会を成功に導かれた青木保ICOM日本委員会委員長、組織委員長の佐々木丞平・京都国立博物館長、運営委員長の栗原祐司・京都国立博物館副館長をはじめ大会関係者各位に、この場を借りて、最大級の賛辞を送り、また感謝申し上げたい。私は、大会招致委員会委員、そして招致が決定してからは、組織委員会委員として、今大会とつながりをもったが、組織・運営の面では何らの貢献もできなかった。ただ、招致の段階で大会テーマを議論した際、「Museums as Cultural Hubs」というコンセプトを提案させていただいた。そのおり、この言葉に込めた思いは、異なる文化と文化の結節点、そして同じ文化の遺産を一つの世代からもう一つの世代へつなぐ結節点としてのミュージアムの役割を地球規模で再確認しようという点にあった。さらに議論を重ねた結果、“Museums as Cultural Hubs: The Future of Tradition”「文化をつなぐミュージアム―伝統を未来へ」と、空間と時間を含めた文化の結節点としてのミュージアムを語る、よりわかりやすいタイトルが大会テーマとして打ち出された。さらに最終的に、大会決議の中で「Museums as Cultural Hubs(文化の結節点としてのミュージアム)の概念の徹底」が謳われたのは、大変光栄なことでもあり、また意義深いことでもあると受けとめている。

私の所属する国立民族学博物館(民博)としては、会期中、館を紹介するブース展示を開設したほか、会期3日目、9月3日にICOM日本委員会と国立民族学博物館の共同主催で「博物館とコミュニティ開発」と題するセッションを開催したほか、5日目、9月5日には、ICME(民族学の博物館・コレクション国際委員会)、CIMCIM(楽器の博物館・コレクション国際委員会)のオフサイト・ミーティングを大阪・千里の民博で開催した。

2日目に開催した「博物館とコミュニティ開発」のセッションでは、過去26年間民博がJICA(国際協力機構)の委託を受けて毎年実施してきた博物館学研修コースを基盤にして、このコースの過去の修了者4名をミャンマー、アルメニア、エクアドル、ザンビアから招聘し、それぞれの国でのコミュニティに根ざした博物館活動のあり方の報告を受けて、参加者全員でコミュニティ開発に向けた博物館の可能性と課題について意見を交わした(図1)。このセッションを通じて、地域コミュニティの活性化に向けた博物館の役割が明らかになったと考えている。また、その機会をとおして、日本で実施している博物館人材育成の成果を世界の博物館関係者と共有することができた。早速、大会終了後、この研修コースへの参加希望が、南米、アフリカの数カ国から新たに表明されている。なお、このセッションは使用言語は英語としたが、情報保障の観点から、あわせて日英同時通訳、日本手話通訳、アメリカ手話通訳および英語文字通訳を導入して実施し、総計158名の参加を得た。

図1「博物館とコミュニティ開発」のセッション会場:京都国際会館2019年9月3日

5日目の民博を会場としたICME、CIMCIM合同のオフサイト・ミーティングでは、午前中に本館の常設展示と、同時に開催されていた特別展「驚異と怪異―想像界の生き物たち」、それに収蔵庫や、開発中の電子ガイドのデモンストレーションなどをグループに分かれて見学していただいたあと、午後からミュージアムの活動における「多様性と普遍性」をテーマとしたシンポジウムを開催した(図2)。私と嶋和彦・浜松楽器博物館前館長によるふたつの基調講演のあと、パネルディスカッションでは、大会のプレナリーセッションでの議題「博物館定義の再考」にも議論が及び、博物館の多様性と普遍性という視点から、時代の要請を受けた博物館の役割の刷新について熱い議論が展開された。当日の参加者は、141名にのぼると報告を受けている。

ICMEは、世界の民族学博物館の関係者・専門家から構成されているが、今回、初めて民博の展示をご覧になった参加者の多くから、「こんな民族学博物館見たことない。World’s best ethnographical museum」というおほめの言葉をいただき、特別展については異口同音に「Congratulationおめでとう」という言葉をいただいた。

国立民族学博物館は、博物館という名前はついているが、民族学・文化人類学の分野の大学共同利用機関として、1977年に大阪・千里の1970年万博の跡地に開館したもので、その研究機関が研究資料の蓄積と研究成果の公開の回路として博物館機能をもち、また総合研究大学院大学(総研大)の2専攻を通じて、大学院教育にも従事しているという組織である。民博がこれまでに収集してきた標本資料、モノの資料は、現在、34万5千点。これは、20世紀後半以降に築かれた民族学資料のコレクションとしては世界最大のものである。また、民博は、施設の規模の上で、現在、世界最大の民族学博物館となっている。今回のICOM京都大会の機会を通じて、コレクションや施設の規模だけでなく、その展示についても世界を主導する位置にあることが改めて確認できたと考えている。

大会の成果―5つの大会決議

さて、今回の大会の成果として5つの決議が採択された。すなわち、SDGsの実現に向けた博物館の役割に関わる「われわれの世界を変革する:持続可能な改革のための2030年アジェンダの履行」、欧米主体に偏りがちなICOMの活動にアジア諸国の博物館・美術館が積極的にかかわることを求める「ICOMコミュニティへのアジアの参画の徹底」、ICOM京都大会が大会テーマとして掲げた「『Museums as Cultural Hubs』の理念の徹底」、博物館や美術館が所蔵するコレクションの次世代への継承に向けた保存・活用の研究・教育の重要性を強調する「世界中の収蔵庫のコレクションの保護と活用に向けた方策」、持続可能なコミュニティの発展に向けた博物館の役割の再認識を求める「博物館、コミュニティおよび持続可能性」の5つの決議である。このうち、ふたつ目の「ICOMコミュニティへのアジアの参画の徹底」と3つ目の「『Museums as Cultural Hubs』の理念の徹底」は、ICOM日本からの提案によるものであった。今後、ICOMが文字通りの世界の博物館の連合体として機能していく上で、アジアの各国、各博物館の参加が不可欠になることは言を俟たない。「ICOMコミュニティへのアジアの参画の徹底」という決議がなされたのは時宜を得たことと考えられる。

一方、2016年のICOMミラノ大会以来議論がなされ、大会の最終日の臨時総会での採択がめざされた新たな博物館の定義の案については、定義というよりはメッセージもしくは理念というべきもので、世界の多様な博物館に適用するには、簡潔さを欠き、用語の選択も偏っているなどという理由から、採択は延期となった。たしかに、案として示されたものは、定義というよりミュージアムの機能を列挙したものというほうが適当な内容であった。国内外の報道などでは、この博物館の定義改訂についての議論が本大会最大の焦点などと取り扱われ、その改訂が実現できなかったことで、今大会の成果が限定的であるかのような受け止め方をしているものも一部に見られる。しかし、私自身はそれとはまったく異なる受けとめ方をしている。

博物館の定義再考

この博物館の定義については、大会前から提案を求められていたが、私自身は具体的な提案はおこなわなかった。率直に言って、私は基本的に定義というものには関心がない。定義とは物事の枠組みを決めるもので、新たな可能性やイノベーションといったものは、その枠組みからはみ出していくことでこそ開けてくる。博物館の場合も、定義を固めるよりも、むしろ既成の定義からどれだけはみ出していけるかが、博物館の新たな可能性を生み出す上で重要なのだと考えている。

その点からすれば、京都大会での新たな定義の採択の見送りは、むしろ、現在の世界の博物館の活動が、一定の枠組みでは収まり切れないほど多様化し、さまざまな新たな方向に向かって動き出していることを示すものとして、歓迎すべきもののようにすら思われる。新たな定義に向けては、これからもICOMの委員会で議論が続けられるようであるが、博物館についての国際的な議論が熱くなり続けることを、私自身は支持している。むしろ、私としては、その定義の代わりに、大会テーマとして掲げられた「『Museums as Cultural Hubs』の理念の徹底」が大会決議の中に盛り込まれたことこそを評価したいと思っている。なにも、私が提案したテーマだからだというのではない。時代の移り変わりのなかで、博物館の役割や定義がいかに変わろうと、そこにモノがあり、そこに人が集う場があるという博物館が、人と人、文化と文化、世代と世代をつなぐ結節点であることは決して変わることがなく、その点にこそ、これからの博物館の可能性も宿されていると考えるからである。

博物館の歴史の転換点

考えてみると、公共博物館の歴史が1753年の大英博物館の創設から始まったとすれば、現在はそれからおよそ265年。われわれは、多分、後の時代から見れば博物館の歴史のなかで最初の大きな転換点といわれるような局面に、今、立ち会っているのだと思われる。そもそも、地球の文明自体が今、数百年来の、大きな転換点を迎えている。これまで中心とされてきた側が一方的に周縁と規定されてきた側を支配し、調査し、研究するという力関係が変質し、従来、それぞれ中心、周縁とされてきた人間集団の間に、創造的なものも破壊的なものも含めて、双方向的な交錯、接触、交流が至る所で起こるようになってきている。そのなかで、ややもすれば、排他的で偏狭なナショナリズムが頭を跨げてくるような動きも見える。それだけに、人びとが、異なる文化を尊重しつつ、言語や文化の違いを超えてともに生きる世界を築くことが、これまでになく求められてきている。今ほど、他者への共感に基づき、自己と他者の文化についての理解を深めるという、博物館の役割が求められている時代はないように思われる。

私自身は、近年、「フォーラムとしてのミュージアム」というコンセプトを掲げて、新たな時代における博物館の役割について発言をしてきた。この表現は、もともと1970年代初頭に、当時のブルックリン・ミュージアムの館長、ダンカン・キャメロン(Duncan Cameron)が最初に用いたものである。キャメロンは、「テンプルとしてのミュージアム」と「フォーラムとしてのミュージアム」という語を用いて、博物館・美術館のあり方の類別を試みた(Cameron 1972)。テンプルとしてのミュージアムとは、すでに評価の定まった「至宝」を人びとが「拝みにくる」神殿のような場所、一方、フォーラムとしてのミュージアムとは、未知なるものに出会い、そこから議論が始まる場所という意味である。キャメロンはまた、前者、テンプルは結果であり、後者、フォーラムはプロセスであるとも言っている。

私が、このキャメロンの見解を日本で最初に紹介したのは、今からもう25年以上も前、1994年の民博創設20周年記念シンポジウム「21世紀の民族学と博物館―異文化をいかに提示するか」の場であった。その折り、これからの博物館には、ますますフォーラムとしての役割が強く求められてくるだろうと述べたが、それから四半世紀、世界の博物館・美術館はたしかにその方向に向けて変化を遂げてきた。そのことは、今回の博物館の定義をめぐる議論が如実に示している。

オリンピックと博物館

振り返ってみると、とくに先の世紀の変わり目にあたる2000年ごろを境に、世界の博物館のあり方には、大きな変化が見えてきたように思われる。今年2020年、日本では東京オリンピックが開催されるが、20世紀の末には、オリンピックがおこなわれると、その開催地あるいは開催国の博物館で、騒動が起こるということが常態化していた。

1988年の冬、オリンピック記念事業として企画された同地グレンボウ博物館の展覧会、「ザ・スピリット・スィングズ(精霊は歌う)―カナダ先住民の芸術的伝統」展が、ルビコン・レイク・クリー・インディアン民族同盟からのボイコット運動にさらされるという事件が起きた。この展示は、カナダ各地の先住民の文化遺産を伝統的芸術とみなして紹介するという展示であったが、事前に展示の対象となった先住民とのあいだで十分な議論をおこなわず、一方的に伝統的な文化ばかりを展示したこと、そして、それ以上に、その主たるスポンサーであるシェル石油が、カナダ政府が先住民からとりあげた土地で現に石油の採掘をおこなっているというのが、ボイコットの主な理由であった。この展覧会は、展示する権利の所在、展示する側と展示される側の関係性、博物館の社会的責任など、博物館に潜在していたいくつもの問題をうかびあがらせる結果となった。そして、その後、カナダでは、グレンボウ博物館だけでなく、博物館一般における先住民文化の展示について、熱い議論が戦わされるようになっていく。

1992年の夏の、バルセロナでのオリンピックに際しては、その直前に、アフリカ諸国の大使が集い、オリンピックのボイコットを示唆する事件がおこっている。事件のきっかけは、スペインのバニョレスという小さな町のダルデール自然史博物館に1917年以来展示されていた「アフリカ人の剥製」―1830年代に、ボツワナで死後まもなく墓地から掘り出された男性の遺体をフランスの剥製技師が剥製処理したものである―をオリンピック期間中、展示からはずすようにというオリンピック国内委員会の要請に、同博物館が難色を示したことによる。結果的に、「剥製」は期間中展示から外されたが、その後、2000年の10月になってようやく、その遺体がボツワナに戻され、首都ハバロネのツォロフェロ公園の一画に埋葬された。この例に限らず、2000年前後からは、博物館に収蔵された資料や遺骸・遺骨の返還の動きも活発化してきている。

こうした資料の返還の動きと呼応するように、2000年前後になると、1980年代、90年代にみられた、オリンピックが開催されると、その開催地の民族学博物館を舞台に「事件」がおこるという傾向にも変化が見られるようになってくる。具体的に言えば、2000年のシドニー・オリンピックでは、ボイコットとか暴動とかいった「事件」は発生しなかった。シドニーでは、オーストラリアの先住民(アボリジニ)の指導者たちが、オリンピックをむしろ自分たちの受けた苦難の歴史を世界にアピールする好機と考え、さまざまな文化プログラムを積極的に組織していったからである。この傾向は、シドニー以降の冬季・夏季のオリンピックでも、基本的に踏襲されて来ているように思われる。

とくに2010年のバンクーバーでの冬季オリンピックでは、「先住民族が古来生活を営んできた土地」が会場となることから、さらに一歩踏み込んで、オリンピック組織委員会に当初から先住民の代表が加わり、大会の企画自体に先住民が参画することとなった。開会式では先住民の人びとが先に入場して、選手団を迎えるという構成がとられた。博物館をめぐってボイコット運動がおこったカルガリーから20年、世界が変わった、博物館とその収集・展示の対象になっているコミュニティの関係の変わったことを実感させる出来事であった。

周知の通り、日本でも、この春、2020年4月に、東京オリンピック開催にあわせて、北海道白老に国立のアイヌ民族博物館が開館することになっている。オリンピックの開催とその地の先住民をめぐる博物館の動きは間違いなく連動している。

無形文化遺産と博物館

2000年以降のミュージアムをめぐる動きの中で、注目すべきもののひとつとして、ミュージアムの世界における無形文化遺産に関する関心の高まりがある。きっかけになったのは、2003年秋の第32回UNESCOの総会において、「無形文化遺産保護条約」が採択されたことである。そして、こうした無形文化遺産への関心の高まりとともに、博物館にも、無形の文化遺産の継承の場としての新たな役割が求められるようになってきている。

博物館や美術館は、これまで、主として過去の有形の遺産を集め、保存する施設とみなされてきた。この見方に立つ限り、博物館や美術館が、「無形文化遺産」の継承のために果たせる役割は、きわめて限られているようにみえる。しかし、博物館や美術館は、決して単なる有形の文化遺産の貯蔵庫ではない。それは、また、無形の知識や経験の継承を可能にする場でもあり、そこに人が集い、過去から受け継がれてきた知識や技術、経験や記憶を、次の世代に伝承することで、新たな文化や社会を作り上げていく装置でもある。

私たちの民博では、毎年、日本の先住民であるアイヌの工芸技術伝承者の方々5人を数週間、外来研究員として迎え、民博の資料を身近に手にとって調査研究してもらうとともに、実際の制作活動も進めてもらうというプログラムを実施している。アイヌの人びとの考え方では、動物や植物、家や器物を含め、万物の背後に霊的な存在、カムイがいると考えられている。そこで、民博では、1年に一度、この技術伝承者の研修期間中に、民博に収蔵されるモノたちのカムイに向けた儀礼、カムイノミを実施することとしている。儀礼では、日ごろは収蔵庫に収めている器や道具を実際に使用する(図3)。私は、その儀礼に参加するたび、民博の収蔵品に命が吹き込まれる瞬間だと実感する。これらの活動は、博物館を単なる過去の遺産の保存庫ではなく、現在の人びとがそこに集うことで、無形の知識や技術を継承し、次の時代につなげていく装置として活用している活動だと自負している。

協働の場としてのミュージアム

これら、2000年前後からあらわれてきた世界の博物館をめぐる顕著な動向を見ると、そのいずれにおいても、これまで一方的な権力の装置であった博物館が、双方向の交流と情報の流れを生み出すものとして改めて活用されてきている、という構図を見て取ることができるように思われる。そこから、これからの時代の博物館の在り方について、一つの明確な像が結ばれつつあることが確認できるであろう。それは、博物館というものは、その所蔵品の最終的な所有者ではなく、むしろ“custodian”「管理者」であり、本来の所有者や利用者との間でのさまざまな協働作業をおこなう場だという認識である。“Museums as Cultural Hubs”「文化の結節点としてのミュージアム」という語に込めた私の考えは、まさにその点に集約される。

大会の中で、「デコロナイゼーションと返還」と題する特別のパネルディスカッションの場が設けられたことからもわかるとおり、博物館という装置は、その多くが植民地時代に形成されたものであり、他者の文化遺産を所蔵するという、植民地主義の申し子としての性格を拭いきれない、権力的な装置である。一方で、その装置が、今、急速に地球規模で増加している。これだけ、博物館という装置が世界各地に広がってしまった以上、それを別のかたち、もっとポジティブなかたちで使っていく方法があるに違いない。博物館にかかわる者が、今、世界のあちこちで展開しているのは、まさにそうした「博物館の新たな使い途」を模索する試みだといってよい。「フォーラムとしてのミュージアム」という考え方も、「有形のみならず無形の文化遺産の継承の場としてのミュージアム」というあり方も、また「文化の結節点としてのミュージアム」というのも、その「博物館の新たな使い途」のひとつを示したものにほかならない。

これからの課題

ICOM京都大会を控えた会合の場で、私は、世界に向けては、「この大会が、フォーラムとしての博物館、文化の結節点としての博物館の意義を確認する場となるなら、それは新しい博物館像を提案する一つの歴史的エポックを作るものになる」と申し上げた。大会を終えた今、京都での大会が、そうした、新たなミュージアムのあり方を改めて提示し、今後さらに徹底していくことを決議の形で国際的に共有する場となったという点で、今回のICOM京都大会は、所期の目的を達成し、大きな成果をあげたといえると確信している。これからは、国内国外を問わず、一つ一つの博物館・美術館が、文字通り、日常の活動のなかで、文化の結節点としての博物館としての理念の実現を目指して活動していくことが求められてくる。

一方で、国内に向けては、「京都で1週間の大会が開かれるというだけではもったいない。一過性の出来事ではなく、それを機に国内の博物館がこれまでとは異なる、新たな展開を示していく端緒にすべきだ」と繰り返し申し上げてきた。具体的には、世界の博物館が集うというICOMの意義に即して、国内の博物館が世界の博物館と持続的なつながり、ネットワークを築いていく契機にできないかという提案である。

博物館というものは、それがいかに特定の地域や集団と結びついたものであっても、広く世界に開かれた接触と交流の場であり、自他の交わりのなかで互いをわずかずつでも高めていくことのできるという可能性を備えた装置だと思われる。ある地域、ある対象に特化した博物館は、まさにそれがゆえに、同じような特徴をもった、あるいは同じような資源を対象とした世界の博物館とつながることができる。そして、日本中の博物館が、世界のどこかの博物館とつながれば、日本全体としては、博物館を通じて、世界中とつながるネットワークができるということになる。京都大会の成果を、一過性のものでなく、将来につなげていけるかどうかは、これからの私たちの活動にかかっている。幸い、関西地区では、2025年に大阪・関西万博が開催されることになった。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとするという万博の内容を固める作業は、まだこれからである。AIやIoTなど、バーチャルな技術の動員のほうが強調されがちであるが、博覧会が最終的には展示というかたちをとらざるを得ない以上、世界各国の参加を募り、各国と企画を練り上げるのにあたっては、それぞれの国で展示のノウハウを蓄積している博物館と連携するのが最良の方法であろう。JICAの協力隊のように、若者たちに現地へ赴いてもらい、共同で企画立案の作業を進めるのが望ましいと、国際博覧会協会に提言をしている。5年後の万博を、ICOM京都大会を受けて、日本の博物館と世界の博物館の間の、人の結びつきを基軸にした実質的で持続的なつながりを醸成する機会にしようという提案である。もとより、このような提案も、数多く考えうる、新たな可能性の一つにすぎない。ICOM京都大会の開催が、そうした日本と世界の博物館の活性化、協働に向けた活動のスタートとなることを願っている。

(よしだ・けんじ)


引用文献
Cameron, Duncan F.(1972). The Museum: A Temple or the Forum. Journal of World History 14(1), 189-202.